こんにちは。

いそあきお です。

私の職業はデザイナーです。

インテリアデザインとグラフィックデザイン、そして料理のデザインもしています。

陶芸家でしたら、作品の器や皿、家具職人でしたら椅子や机、レザークラフト職人でしたら、バッグや財布など、自らが作った『形ある作品(商品)』を紹介しますよね。そして、あなたが気に入れば、その作品(商品)を購入することができます。

デザイン業界の中でもインテリアデザインは、『商品』となるデザインが購入する前の時点で形として存在せず、お客様からご依頼があってはじめて『形ある作品(商品)』になるものなので、どのようにしてお客様から『デザインのご依頼を戴くか?』が、インテリアデザインの仕事をスタートさせるための最大のテーマなのです。

お客様がデザインパートナーを選ぶ判断材料としてデザイン会社やフリーデザイナーがお客様に提供しているのは、過去の作品や事例写真を、会社やデザイナー(設計士)の理念や哲学などをご紹介して判断していただいております。

私がスタートさせた『クリエイティブプレイス・タイドランド』は、業務開始から日が浅く、私ひとりで運営しているため、『タイドランド』としての事例は多くありません。
フリーランスになる前のデザイン会社に勤務していた当時は、デジタルカメラが普及していない時代の作品(事例)は、そのまま会社に置いて次の会社へおいてきています。また、デジタルカメラが普及した頃の作品(事例)も、持ち出しを制限されていたので、ご紹介出来る事例も多くありません。

このような理由で、少ない事例を埋める方法として、私のこれまでの仕事の遍歴と仕事や生活のエピソードなどを通して、私がどのような人間で、何を考えているかを紹介させていただき、ご理解を深めていただけたら幸いと思い、このコーナーを設けました。

《生まれ》

1960年(昭和35年)5月13日、東京都北区西が丘で生まれました。

北区西が丘は、JR赤羽駅と十条駅のちょうど中間地点に位置した、当時の東京23区の中でもマイナー中のマイナーな地域でしたが、現在では赤羽は『昼呑みのメッカ』と呼ばれ十条は都内有数の商店街『十条銀座』が観光地化しています。

僕が生まれた西が丘もオリンピック選手養成の『味の素フィールド西が丘』がつくられて、俄然メジャーになりました。

《学生時代》

子どもの頃は、絵を描くことが大好きで、とても上手に絵を描いていたと母から聞きました。学校の成績は、5段階評価で、算数、国語、社会、理科は『3』がベースで、『4』が少し混じりのいわゆる並みの成績でしたが、小学校、中学校時代を通して、図工(美術)と体育だけは、常に『5』でした。写生コンクールや防災ポスターコンクールでは、必ず表彰状を戴いておりました。

はっきり憶えています、このころから将来はインテリアデザイナーになる夢を抱いておりました。

前列右から2人目

高校は家計の負担を少しでも無くすために都立高校に進み、将来の夢の実現のために美術部で腕を磨くのかと思いきや、溢れ出るエネルギーの行き場を求めてラグビー部に入部して青春を謳歌しました。

《大学時代》

デザイナーになるための登竜門というか、デザイナー仮免許取得という感覚で、美大進学を考えておりましたが、現役時代はラグビーに明け暮れて美大受験用の実技練習など全くしていなかったので見事に不合格。

浪人して一から受験用のデッサンを習って武蔵野美術大学に進学しました。インテリアデザイン科が無かったので、芸能デザイン学科(現:空間演出デザイン学科)ディスプレイデザイン専攻で空間デザインを学びました。

授業態度は、良かったとは言えません。
授業の課題をコツコツやるタイプではなく、授業よりも先輩が起こした広告代理店出のアルバイトで、クライアントと打ち合わせをして広告を作っていたほうが楽しかったですね。もちろん授業の課題はソツなくこなしていました。

また、『芸術祭』という武蔵野美術大学の学園祭では、模擬店でリアルなインテリアの居酒屋を作って水を得た魚のように活躍していました。その時の教授が私に言った言葉を今でも覚えています。『磯君、君は実戦向きだね〜、早く社会に出たほうがいいね』

《会社員時代》

就職活動は殆どしませんでした。しないというか、あまり学校に行っていなかったものですから、どうやって就職活動をするのか分かっていなかったんですね。

そんなある日、大学の研究室から電話で呼び出されました。教授推薦でフリーパスで入社出来る会社はあるというのです。私はやりたいことと方向が違うので、せっかくの教授推薦でしたが、教授にお断りしてしまったのでした。

同じ頃、広告代理店(アルバイト)でのグラフィックデザインの仕事が忙しく、すっかり就活の期間を逸してしまったのです。

年が明けて就職が決まっていないことに我に返り、今度は真剣に就職先を見つけようと学生就職課に向かい、そこで見つけたインテリアデザイナーを募集している会社に連絡をしたところ『是非面接に来て欲しい』と翌日面接し、即日入社決定。な〜だ、簡単に決まった!と社会を甘く見てしまったのでした。

入社した会社は、当時不動産バブルが始まり、ゴールデンタイムにTVコマーシャルもバンバン打って、飛ぶ取り落とす勢いで急成長していたマンションデベロッパー『H社』を子会社に持つT社という事務機器販売会社でした。

T社は、練馬の老舗の文房具屋でしたが西新宿に進出。子会社のマンション事業の成功で資金を得て、『事務所からオフィスへ』という当時の通産省が進める『ニューオフィス』の波に乗るべく、オフィスインテリア事業の強化をすすめていた、そのタイミングに私の応募が合ったようです。

会社という世界の右も左も分からないデザイナー1年生です。

入社3ヶ月でいきなり任された仕事が、新宿歌舞伎町の区役所通りの飲食店ビル『LEEビル』のテナントにはいるクラブのデザインでした。クラブというのは、現在のクラブ⤵ではなくクラブ⤴のイントネーションです。


実戦のデザインや設計など初めてですから、仕事を任されて嬉しいというより、もの凄いプレッシャーでした。
お客さんのチーママさんから席数や色彩、素材、照明などの要望を聞いたり、厨房に入るチーフからは厨房の使い勝手などの要望を来たりして、毎日終電までドラフター(製図台)にかじりつきデザインをしていました。
自分で描いた図面を基に、施工業者と打ち合わせをして『おさまり』を検討。この『おさまり』とは、よく『絵に描いた餅』という表現がありますが、絵(図面)では、いくらでもかけるけど、実際にそう簡単に形にすることはできないので、そのプロセスを『おさまり』というのです。
その打ち合わせで、施工を依頼していた会社のベテランの職人さんに『バカヤロー、こんなのできるわけね〜だろ〜』などいつも叱咤されながら鍛えられましたね。

《初めての転職〜マンモスグループ会社》

入社して7年目を迎えたころ、『バブルの崩壊』で日本中が混乱を極めていました。私の会社はその『バブル』で成長してきた会社でしたから、その影響をモロにうけて、見る見るうちに崩壊していきました。

当時は一つの会社に勤め上げることがあたりまえで『転職』はあまりいい印象ではありませんでした。

しかし、バブルン崩壊が落ちつきだしてくるころ、仕事を失った優秀な人材の受け皿のためなのか、リクルートが転職サービスをスタートさせていました。

私は、会社の状況と自分の生活、オフィス以外にやってみたいデザインなどもあって転職を決意しました。

転職した会社は、SS社(現:ST社)という会社です。会社数100、社員総数10000人を超えるグループ会社、Fグループの1社で、業務内容は、親会社のSB社の所有するビルに入るテナントのオフィスのデザイン、Fグループの各会社のオフィスのデザイン、Fグループで主宰するゴールデンウィークに開催するイベントのデザインや展示会のブースのデザインなど多岐にわたっていました。

流石ビッグ企業!バブルの影響などどこ吹く風!の空気がありましたね。

この会社は、ずっとプロパー(生え抜き)社員で構成されていて、中途採用者もいましたが知り合いの紹介以外は、公募はしていませんでした。

人事が公募の中途採用を始めた理由は、所有するビルが老朽化し立て直す計画があり、ビルに入居しているテナントの仕事がなくなるために、外からに風を吹き込んで社内の活性化を図ることにありました。

転職後は、『企画デザイン部』に配属されて、展示会のブースのデザイン、グループイベントのデザイン、テナントのオフィスデザインと幅広くデザイン業務をしておりましたが、ビルの建て替え計画が本格化してきたことを機に、組織編成が変わり、オフィス(デザイン)部門の強化を図るために建装部という部署をつくり、営業部門と設計部門を統合させ、私はその設計部門に配属転換されました。

その部署での会議で、今でも覚えている上司(営業部門)の言葉を憶えています。ビル建て替えが公になり、テナントからの仕事が無くなってきていた時の会議です。

私は『グループ内に仕事を頼るのではなく、外部から仕事を獲ってくるアクションを起こしましょう』という発言に対してその上司は『磯君、この会社はね、仕事は獲ってくるものじゃなくて、来るものなんだよ〜』ニヤニヤ笑いながら話していたことを忘れません。

令和の時代にこのような会社は皆無かも知れませんが、昭和の後半に所属していたこの会社からは、巨大なグループ会社の強みと弱みを同時に学びました。

入社して5年。私の部門の仕事が激減し、社内で『早期退職制度』というリストラが発表されました。とても嫌な空気が社内に溢れていましたね。外(転職)に出るのが怖いのでしょう、社員は皆保身のための行動に走ります。

私は、早期退職の条件も悪くなく、38歳という若さもあったので、仕方が無いので、私と何人かの社員が手を上げてこの会社を去ることにしました。

《技術と数字という武器を得た転職》

退職後、半年ほど仕事をせず身体と心のリフレッシュをしました。

2度目の転職は、ハローワークで探した会社です。

BA社という江東区にある展示会専門の会社です。

この会社は、営業、デザイン、PCオペレーター、製作の仕事が完全分業化された会社でした。分業化した業務だけに専念するだけでなく、朝は9時の始業とともに営業が用意した顧客の見込みリストが配布され『電話アタック』と称し、部門問わず電話をかける電話営業もありました。デザイナーにはパソコンは与えず、デザインを考えることだけに専念させ、道具は平行製図台と三角定規とコンパスを使って図面とフリーハンドでスケッチを描きました。

PCオペレーターは、デザイナーが考えたデザイン(図面)の清書と3Dコンピュータグラフィックを描くことに専念という徹底的に合理的な分業をしていました。

驚くほどの低賃金で、デザインコンペに勝って仕事を受注すると、一件に対して数百円の報奨金が与えられルシステムで、それでも毎月報奨金が数千円あったので、デザインをこなした数と受注率は、なかなかなものでした。(笑)
今考えると笑ってしまうほど“最強のブラックな会社”でした。

でも、この会社に1年居たことで、仕事を獲るための厳しさを学び、PCオペレーターとの打ち合わせを繰り返す中でコンピュータグラフィックの操作方法を教えてもらったりして、3D画像の描き方をマスターして、デザイナーの表現技法を一つ加えることができました。

当然このようなブラック会社に長居することはありません。1年で転職したました。

転職先は千代田区永田町にオフィスを置くOS社。

オフィス移転やオフィスビルの改修をする建築色の強い会社です。

社長は私と同じ年で、社長は中堅ゼネコンから独立し会社を立ち上げた『負けず嫌いの努力家』です。

社長と一緒にお酒を飲んだ時に聞かされた話です。『俺がゼネコン時代、営業成績がトップになっても、俺より下の成績の奴らがどんどん出世していくんだ。なぜだか知ってるか?・・・そいつら大卒だからだよ!』

社長は熊本の高専出身で、学歴差別に対してのコンプレックスを強く抱いて、

そんな社長の原動力は『実力で大卒を見返してやる』でした。

社長は、とにかく頭の回転の速く、歩くスピードも速い。工事の見積もりを作る時間も凄い早さでした。

この会社では、打ち合わせ、デザイン・設計、見積もり、業者との交渉、工事発注、工事監理をすべてひとりで完結させる仕事の仕方で、直前に勤務していた完全分業制の会社と真逆のシステムです。

この会社に入るまで私は『デザイナーがデザインして営業が見積書をつくるもの』という意識が強くあり、『原価意識』に欠けていたことを認識しました。

つまり、いくらいいデザインをしても原価がかかり過ぎてしまう。その逆で、原価を意識するばかりに陳腐なデザインになってしまう。などこれまでに経験したことの無いデザインの苦しみをこの会社で味わって、開眼し『原価バランスのとれたデザイン』をするための『数字』という武器を得ました。

初めてデザインをした時に施工業者のベテラン職人さんから言われた『バカヤロー、こんなのできるわけね〜だろ〜』・・・は、もう言われることはなくなり、懐かしく思いました。

《デザインを極めたい転職》

O社での仕事にも慣れて、仕事も楽しく、給料も良かったので、このままずっとこの会社で勤め上げるという選択肢もありましたが、もっともっとデザインを極めたいという気持ちから、インターネットの求人サイトでで『デザイナーの求人』を探していました。

そこで見つけた会社が、当時台東区下谷にオフィスを置いた

SS社です。

求人サイトでは『OA&ORの会社で・・・』とオフィスオートメーションとオフィスリニューアルを提案する会社とらったので、詳しい業務内容を聞くために面接を申し込みました。

面接当日。会社のオフィスは、東京メトロ入谷駅からすぐの小さなビルの2階。面接官は社長ではなく、デザインを担当している50歳を超えたS氏。S紙はスーパーマーケットの催事部に所属していたことから、社長からデザインを任され、S氏の部下を捜していたようです。

S氏の面接は、なぜか上から目線で、そのわりには、S氏の質問は初歩的な質問ばかりで、デザインや工事原価に対しての実戦的知識があまりにも乏し過ぎていました。

S氏の質問に対して、私の回答はS氏が予想していた回答を遥かに上回る回答回答だったのでしょうか。S氏の態度が変わってS氏は面接室から出て行きました。すると社長が面接に現れました。社長の幾つかの質問に答えた後、社長から『明日から是非来てください』と入社決定の言葉を戴きました。

入社後、私とS氏のポストが入れ代わったことは、言うまでもありません。

入社して分かったこと。

社員は社長と経理担当の社長の奥さん、S氏、事務の女性と電気工事で常に現場に行っている数名の6名の会社で、肝心のデザインは、欠片も無い会社でした。
後戻りはできないし、やるしかないので、腹を決めてこの会社に賭けてみることにしました。

社長は通信機器の販売をしていたので、幸い顧客を多く持っていました。

まずは、その顧客にオフィスデザインのPR営業をかけて、デザインコンペには積極的に参加し、何が何でも『受注』という、今思えば凄まじい気概でデザインをして、8割を超えるデザインコンペの勝率で、毎月でデザイン売り上げを上げていき、私ひとりではこなすことができないほどの受注後のデザインを抱えるほどになったので、半年に1人のペースで、デザインスタッフを増やしていきました。デザインスタッフといっても、高額な給料を出して実績のあるデザイナーを雇えるほど、資金は潤沢ではありません。ですから私がデザインした案件の続きをやらせて、仕事を憶えさせると言った方法です。ですからスタッフが育つまでは、私にとって二重の負担がのしかかっていたのでした。

入社時6名の会社が、3年ほどで営業、デザイン、事務スタッフを合わせて20名を超える会社に成長していました。

業界では『デザインのS社』と名も知れるようになり、社名も
『SS社』から『SC社』に改名することになり、狭くなった台東区下谷のフィスから、東京タワーがすぐそばで見える港区東麻布へオフィス移転しました。

この時

社名ロゴのデザインと名刺のデザイン、移転先のオフィスのデザインをしたのは、もちろん私です。

《過重労働の日々》

僕がデザインしたオフィスは、デザイン性が高く、たびたびメディアに取り上げられ、ドラマのロケにも利用されました。

自らがデザインしたオフィス

港区東麻布にオフィスを移したことで、立地のバリューとデザイン性の高いインテリアのオフィスは、『質の良い仕事が集まり』『優秀な人材が集まる』効果が絶大であることを実感しました。

6名だった社員数は3年あまりで40人を超えて、デザインスタッフだけでも10名を超えましたが、仕事の依頼は増え続け、デザイン部のチーフをしていた私は、土日も休まず、平日は深夜2時まで仕事をしてくるまで帰り、シャワーを浴びて2時間仮眠して5時に車でオフィスに向かう。1週間のうち4日はオフィスに泊まって仕事をこなす過重労働の日々が2年ほどつづき、徐々に身体が悲鳴を上げはじめました。
重度の自律神経失調症です。

背中全体が痛くて背中を下にして寝ることができません。真冬だというのに半袖Tシャツ一枚で寝て、気がつくとTシャツは汗でビショビショになり一晩で3回着替える毎日。昼間は履いている革靴の中に汗が1cmくらい溜まり歩くと靴から汗が溢れ出す。

それでもデザインコンペに勝つために、仕事を続けていましたがとうとう限界がやってきました。

急に40°の高熱が出て、口内と食道の上部全体が口内炎の症状になり、食べ物は食べられなくなるだけでなく、水も痛くて飲めなくなったのでした。

妻の勤務していた病院に10日間入院し、その時はなんとか回復することができましたが、その1ヶ月後、同じ症状で再入院することになり、入院初日の夜、社長が病室に来て『磯さん大丈夫ですか。個室なんですね〜、個室なら電源もあるしパソコンを持ってこれますね〜』と私に病室で仕事をさせる気でいましたが、私は強く拒絶しました。

《転機〜仕事よりも健康》

自律神経失調症の治療には、鍼灸がいい。という話を聴いて鍼灸院で治療を受けに生きました。鍼灸師の先生がうつ伏せになった私の背中を触るなり『磯さん、まず病院に行ってください。これは鍼灸治療のレベルではありませんよ。死にますよ』と衝撃的な言葉でした。

確かに私の顔は、明らかに土色をしていました。

翌日、主治医の東洋医学の先生に診てもらうことにしました。

その先生が僕の身体を触ったあとに私に『磯さんは今の会社のナンバー2でしょ。ナンバー2をこんな身体になるまで働かせる会社には居てはいけません。会社を辞めなさい』と言いました。医者の言うことではありませんが、それだけ私の身体は危険な状態にあることを実感しました。

この言葉が転機となり、かねてから誘いのあったデザイン会社に、身体の治療を優先させながらを条件に役員として、お世話になることにしました。

《リーマンショック》

お世話になった会社は、中央区八丁堀にオフィスを置く

A社という、オフィスの移転の引越物流業務から会社を興し、オフィスデザインまで手がける社員30名ほどの会社です。

この会社は、引越、通信、電気、などのエキスパートが居る会社で、『駒』の揃っている会社で、デザイン部門を強化したいという狙いがありました。

どこの会社や組織でも新人が入ってくると、歓迎の意を表に現しますが、役職が上の人間が入ってくると、大概、疑念の眼を向けるのが常です。

最初はギクシャクしたところがありましたが、一緒に汗を流すたびに、社員さんから徐々に信用を得ていきました。

会社の新事業のデザインを強化するために、私がこの会社に入る1年前に銀行から融資を受けてオフィスの全面改装をしていて、全面ガラス張りの会議室などがあり、1階にオフィスがあることもあり、道を歩くビジネスマンやOLも振り返るくらいの広告効果はありました。

業績もコツコツ上がり、会社としての初めての新卒採用をすることになった年です。東京理科大、早大、東京女子大・・・など、名高い大学の学生さんから応募があり、その中でも優秀な学生さんの採用を決めて間もなく、

あのリーマンショックが起きました。
リーマンショックと言ってもアメリカでのこと。とピンと来なかったのですが、

すぐにその影響が来ました。

銀行からは、融資をストップされ、返済を求められます。『貸し剥がし』です。

お金は経済の血液のようなもので、お金の流れが止まると全て止まります。

社長は、銀行から『再建計画』を出すように迫られます。リストラです。

役員は社長を除き3名いましたが、リストラの第一歩は役員の解任です。社員の生活のためには仕方ありません。それより辛かったのは、新卒採用内定者4名の内定解消通告でした。

この年はおそらく、日本中の学生さん、企業が辛い思いをした年だったと思います。

《ダブルショック》

さらに私にとって、もひとつショックな出来事がありました。

役員を解任されても、手がけた仕事の残務処理があるので、施行中の現場へ向かっている最中に携帯電話に実家の北区に住んでいる母から電話がありました。

車を止めて母の電話を受けると『章夫、なんだかお母ちゃん、料理が作れなくなっちゃって・・・』と半分笑ったような声で。
私は『なに冗談言っているの、今大変なんだよ』とかえすと
母は『本当なんだよ』と今度は真面目な声で。

《介護とフリーランス》

母から詳しい話を聴くために、そのまま実家へ向かいました。

母が言うには、行きつけの医院で認知症と診断されたというのです。母を見た感じ、話した感じで何も変わっていないのに認知症とは?とても信じられないので、翌日に母と一緒にその医院に行って医者から話をききました。

フリーになって初めてのデザイン

医者が言うには『火の元、お金の計算ができないので、息子さんがやってあげてください』とのことでしたが、それでも母が認知症であることが信じられずに、専門病院に診てもらい、母が間違いなく認知症を発症したことを受け止めることができました。

この時、母は膠原病と診断されていた父を週一度、病院に連れていっていましたが、お金の計算もできなくなってしまったので、私が父を病院に連れて行くことになったのです。

リーマンショックで離職を余儀なくされて、フリーランスで仕事をしていこうと考えていた私ですが、両親の介護とフリーランスデザイナーを同時にする生活が始まりました。

《両親介護の日々》

父を定期受診のため、板橋にある『健康長寿医療センター』連れて行くために実家へ向かっている時に母から、父が下血して倒れたと携帯に電話が入りました。私が実家についた時には救急車が父を乗せて病院へ向かうところでした。

病院での診断は、ステージ4の食道癌と胃癌です。

父を膠原病専門の外来で受診している時、父はその医者に何度も『喉がつかえる』と訴えていたのですが、医者は父の喉を診ることは一度もなく『それは薬の副作用です』の一点張り、結局、医者の見落としで父の命を縮められたのです。

認知症の母をひとりにしておくことができないので、呼び寄せて、手の施し用も無いほど癌が進んでしまった父と少しでも長く過ごすため、私の住む住居近くで妻の務める病院に父を転院させて、最期を看取ることにしました。

母は父が亡くなって1年後に大腸がんが見つかり、その手術のための麻酔が原因で認知症が一気に進んでしまいました。症状は、日を追うごとに進み、夜間起きだして室内を歩き回る徘徊行為。

とうとう、母は私が母の息子であることも分からなくなってしまいました。

父が亡くなって、こうなるまで、僅か2年というスピードで進行していきました。

母は、その半年後に胆管癌が原因で亡くなりました。

《両親の介護で学んだこと》

5年余りの両親を介護する日々でした。

中には10年や20年介護をしている人も居るので、5年が長いかどうかは何とも言えませんが、当時はとても長く感じました。
そして、多くのことを学びました。

そのひとつ、介護住宅の在り方についてです。

介護住宅と聞いて、真っ先に『バリアフリー』という言葉が浮かんできます。もちろん、段差の無い住居は安全で良いことです。しかし、これは介護される側からの視点です。

介護する側の視点から視ると、もっと大切なものは見えてきます。私が実際に両親を介護することで、もっと必要なことがあることが分かりました。

これまで、お世話になった会社、で会った人たち、両親の介護から学んだことを活かすデザインを皆様に提供していきますので、どうぞ宜しくお願い致します。